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出版社は資本主義に向いてない(第二回) 寄稿・日本文芸社 竹村 響

こんにちは。メディカム編集部 経営企画チームです。
メディアドゥグループは小説やマンガなどの有力な原作創出に加え、各社との相互連携による映画化・ドラマ化などのマルチコンテンツ展開を推進しています。作品輩出において中心的な役割を果たすメディアドゥ子会社が、創業約70年の出版社である日本文芸社です。

同社は現在、デジタル施策強化、出版部数の適正化などによる収益改善に取り組んでおり、2025年2月期第2四半期からの業績は回復基調で推移しています。メディカムでは、長年出版業界に携わり、2024年5月に同社の代表取締役社長となった竹村響氏による寄稿を連載しています。

日本文芸社 代表取締役社長 竹村 響(たけむら・ひびき)

2000年同志社大学卒業後、株式会社竹書房入社。編集職を経て、電子書籍黎明期よりデジタル事業を牽引。執行役員、取締役を歴任し、竹書房の再建に貢献した。2020年に同社を退職。漫画コンサルタントとして、出版社や書店など延べ15社の顧問に就任。2023年12月、日本文芸社取締役に就任。2024年5月より同社代表取締役社長。

竹村響 Hibiki Takemura – note: https://note.com/thibiki

<バックナンバー>

第一回 https://mediado.jp/medicome/industry/8207/

出版をビジネスに適合させる触媒

ジャクソン・ポロックの生み出した「ドリップペインティング」。
床に置いたキャンバスに絵の具を垂らし 、その跳ねた跡を重ねて絵にしていく技法。

つまりポロックは「ある一定の場所にこの色がつく」ということは知っている。
しかしその本当に正確な場所と跡のつき方をポロックは知らない。
ポロックの絵に対するアイデアの制御は途中までしかきいていない。

これが「制御された偶然」。

ポロックのアイデアはあえて「完璧なものであるべき」芸術に偶然の要素を取り込もうということだが、出版というビジネスはまさに「偶然をビジネスに取り込む」試みだ。

ポロックが出版社であり、絵の具は著者だ。ポロックが絵の具を選び、混ぜ合わせ、意図を持ってキャンバスにドリップするように、出版社は著者を選び、組み合わせ、意図を持って執筆依頼を行う。

ではそもそもなぜそのようなことをするのか?
偶然とは絵に、ビジネスに、どのような影響をもたらすのか?

それは「思ってもみない結果」。

人智を超えた、自分では思いつかない、アンコントローラブルだからこそ生まれる価値の高いもの。 出版社側から見ればコンテンツの発注とは「ある期待されるべき要素」を作品に入れてもらうということだが、作家側から見てその要素を入れるプロセス以外の部分が膨大だ。

そしてその膨大な要素は、作家がいうところの「物語が勝手に紡がれる」「キャラが勝手に動き出す」「思ってもみなかったアイデアを思いつく」など多くのアンコントローラブルな要素で構成されている。

それをポロックは、ひとつの絵画として表す。
我々出版社は、発注したコンテンツの出来上がりに期待する。

そしてポロックは自身の作品が上手く仕上がったことに満足するし、我々出版社もそうだ。
ポロックの作品は「名作」と呼ばれ、出版社の本は「ヒット」と呼ばれる。

そう「偶然」がヒットを生み出すのだ。
人が作っているのだから。
だから我々はいかに「偶然」を使うのかを考えている。

現代ビジネスにおいて多く語られる
「属人性の回避」
誰にでもできることは果たして多くの価値を産めるのか?
「再現性の確保」
何個でも作れるものの価値は低減しないのか?

確かにビジネスとは「利益を産み続ける営み」だ。それには再現性が必要であり、属人性はない方が効率に優れる。
それらを研ぎ澄ますことで、確かにビジネスは発展を遂げる。

しかし。
「出版社は資本主義より前から存在」する。
「作品を作る」という一点のみにおいて言えば、出版社にとって「属人性」「再現性」は最も成功から遠い要素になる。誰でも作れる何個でも作れるものに価値は……いや、ないというわけではない。

もちろんすべての作られたものに価値はある。ここで錯誤が生まれるのは「アーティスティックな価値」や「ビジネスとしての価値」、はたまた「ニッチとしての価値」や「マス向けの価値」など様々な要素が交錯するからだ。

作品を作る上では、思った通りに出来やすいものもあれば、まったくコントロールが効かずに全然出来上がらないもの、コントロールが困難だが出来上がってみると素晴らしいものもある。つまり「偶然をビジネスに取り込む」試みは、そうした「あらゆる偶然の度合い」を制御して生み出される作品、本のバリューを想定し、数を作ることによってアベレージを確保し、利益の確保をコントロールしている。

ポートフォリオだ。

ポートフォリオを組むことによって、出版社は出版を、作品作りをビジネスとすることに成功した。
ポートフォリオは、まるでビジネスに向いていない出版社をビジネスに適合させる触媒として機能した。そしてまた、まるで資本主義に向いていない出版社を資本主義に適合させることも可能とした。

なぜか。

ポートフォリオは数値化できるからだ。

ポートフォリオで行うIR

ポートフォリオはまずラインナップから成り立つ。ラインナップとは出版社がメーカーとして抱える商品群だ。日本文芸社で言えば年間200冊程度の書籍、コミックスと年間50冊の漫画雑誌を発売する。これがその年のラインナップであり、また毎年それが積み重なっていくわけで、創業から70年間分のラインナップが存在する。

ラインナップとはただ作られた、販売された商品のリストにすぎないが、これがある指標を持って整理されていくことでポートフォリオが出現する。

例えば「今年発売した商品」と「去年までに発売された商品」、出版界では新刊と既刊と呼んだりするものだが、その割合は一つのポートフォリオとなる。

毎年、新刊がラインナップに加わるのに対して販売が終了するものもあるわけだから、新刊、既刊の比率がラインナップの中に存在し、その視点を持ったラインナップがポートフォリオだ。

さらにポートフォリオは細分化していくことができる。読者対象に着目すれば男性向け、女性向け、子供向け、大人向け。発売サイクルに着目すれば定期誌、単巻。内容に着目すればフィクション、ノンフィクション。あらゆる角度から「何をどれぐらい作っているのか、持っているのか」を表すことができる。

また逆に、ポートフォリオは「ぼやかす」ことも可能だ。どのような商品か、にはまったく着目せずに「書籍」であるか「雑誌」であるか、というふうに外形で括ることなどができる。

IR的にいえば前者のポートフォリオは「業務的」であり、後者のポートフォリオは「管理会計的」である。

管理会計的な視点で言えば、これが「経営」には重要なわけである。例えば年間50冊のマンガ雑誌が発売され、その収支はイーブンであり、そこから派生するコミックスが100冊発売される。
そのコミックスには部数が大きいものが10冊含まれ、トップラインは期待できないが確実に一定数売れるものが30冊含まれ、あと60冊のうち30冊は前巻があるので計算がつく。残された30冊は新たな作品で見立てがつかず「よくわからない」というポートフォリオだったとする。
この年間計画については、かなり幅を限定して売り上げが予測できる。予測できるわけだから「説明ができる」。これで我々は中期計画を作ったり、来年の予算組みを行ったりすることができるようになる。

業務的な視点で言えば、このラインナップはまず年間50冊の雑誌からどれだけの作品が生み出されるか、という予定と分析から始まる。管理会計目線からいけばまったく不要である作品数が、業務上では最も重要だ。
前述の部数が大きい10冊は、管理会計的に言えば大きな利益をもたらすであろうものというシンプルでポジティブなポートフォリオだ。しかし業務的視点だとオペレーションが複雑であったり、マーケティングに多大なコストがかかったりと、リスクもはらんでいるかもしれない。
前巻実績のあるものについては管理会計視点だと良かろうと悪かろうと最も利益の計算がつきやすい安心感のあるポートフォリオであるが、業務視点で言えば連載継続の判断など重大な判断を迫られることも多い。
逆に管理会計的に「よくわからないもの」として捉えられる新たな作品は業務的に言えば「期待感の高いもの」である。
こうして微細にポジティブネガティブの判断が相反する。

出版社の経営とはつまり、この2つのポートフォリオを踏まえて発売する商品群のバランスを調整し、業務的ポートフォリオの視点で業績を追い求め、管理会計的ポートフォリオの視点で市場、ないしは資本家に対して説明を行う。これだけで行うことができる。

業務的な視点で出版社というキャンバスを眺め、どこにどのような方法で絵の具を垂らすか決め、実際に垂らす。この時、経営者はポロックだ。それらはすべて結果とセンスで説明される。
「このあたりにこういうふうに落とせば実にいい結果を生みそうだぞ」

しかし転じてその経営者が市場に対して管理会計的な説明を行うとき、絵の具どころかキャンバス、そして描き手たるポロックの存在さえ消去される。ドリップする高さから見る絵の具のハネの範囲と可能性は距離、ベクトルなどの数値に置き換えられ、サーモンピンクなど叙情的に表されていた絵の具の色は、CMYKやRGBの混色のパーセンテージとして表される。

アナログなものがデジタルに変換されるプロセス、アートがビジネスに変換されるプロセス、出版が資本主義に変換されるプロセスがこれだ。

つまり「来年、ショート動画のトレンドにのって、女性のストレスを解消する系のマンガ作品が売れるだろう。赤字が出る作品も少なそうだし、いくつかはヒットするのでは。ベースは不倫ものとメロドラマもの。ただしマーケティングを重視すると同じような作品ばかりになってしまうので、作品にバリエーションが出るように留意したい。海外では資産家のいざこざものが人気なので、そういうのもやっていけばヒットがあるのでは」というのは業務的な説明だ。

「来年、女性向けのコンテンツ作りを得意とする編集部がトレンドを重視して20の連載を立ち上げた場合、その内2~4作品程度が40~50%程度の高確率で1作品あたり1000万~2000万円の売上を生み出す。またトレンド内での安定感を加味すると、各作品アベレージ以上の売り上げが期待できるので、その結果原価率は30%となるだろう」が管理会計的な説明だ。これはかなりミニマルに近いポートフォリオであり、この上、下に社員単位、編集部単位、ジャンル単位、商品種単位などを重ねて、更なるポートフォリオが構築される。

前者は業務的であり「出版語」。
後者は管理会計的であり「IR語」。
そしてこの2つは「まったく同じものについて語っている」。

これが出版をポートフォリオに落とし込むということであり、IR的に語るということだ。

さあ、これで出版社を資本主義に適合させる準備が整い実行段階になった、と表面的にはそういうことなのであるが、世の常によりこれは先人たちがいうところの「机上の論」である。

こういったロジックを業務の現場に落とし込んだ時に姿を表す大いなる罠。
資本主義と出版社はそう簡単には仲良くなってはくれないのだ。


「出版社は資本主義に向いてない」(第三回)

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