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出版社は資本主義に向いてない(第三回) 寄稿・日本文芸社 竹村 響

こんにちは。メディカム編集部 経営企画チームです。
メディアドゥグループは小説やマンガなどの有力な原作創出に加え、各社との相互連携による映画化・ドラマ化などのマルチコンテンツ展開を推進しています。作品輩出において中心的な役割を果たすメディアドゥ子会社が、創業約70年の出版社である日本文芸社です。

同社は現在、デジタル施策強化、出版部数の適正化などによる収益改善に取り組んでおり、2026年2月期第1四半期(2025年3~5月)には営業黒字化を達成しました。メディカムでは、長年出版業界に携わり、2024年5月から同社代表取締役社長を務める竹村響氏による寄稿を連載しています。

日本文芸社 代表取締役社長 竹村 響(たけむら・ひびき)

2000年同志社大学卒業後、株式会社竹書房入社。編集職を経て、電子書籍黎明期よりデジタル事業を牽引。執行役員、取締役を歴任し、竹書房の再建に貢献した。2020年に同社を退職。漫画コンサルタントとして、出版社や書店など延べ15社の顧問に就任。2023年12月、日本文芸社取締役に就任。2024年5月より同社代表取締役社長。

竹村響 Hibiki Takemura – note: https://note.com/thibiki

<バックナンバー>

第一回 https://mediado.jp/medicome/industry/8207/
第二回 https://mediado.jp/medicome/industry/9234/

解像度を下げろ

「解像度」という言葉がある。
画像の細かさを表す事務的な単語は転じてビジネス文脈で頻出するようになった。ある物事に対する理解の深さや、状況把握の精密さを表す言葉として多様される。「顧客への解像度を上げて隠されたニーズを発見しよう」といったように大変便利に使われる。
現代のビジネスマンたちは毎日、自分たちのビジネスの解像度を上げることを求められ、日々解像度を上げることに腐心している。

今回はそんな解像度を「下げる」話だ。

そもそもなぜ自分たちの商品や顧客に対する理解度や把握を深めようとしているのか? そうすることによって「正しく振る舞える」可能性が高くなるからだ。
濃い味を好む男性に受けると考えてポテトチップス背脂味を開発したが、発売後調査してみると高校生たちの間でバズが広まり、特に若年層女子の間で売れていることがわかった。では、そのような顧客の多いショップへ商品を展開したり、彼女らが好むタレントをブッキングして売上が上がった。
このようなことは枚挙にいとまがなく現代ビジネス、マーケティングのおよそ基本形である。

我々出版社ももちろん日々、解像度を上げることに腐心している。この本はどのようなターゲットに向けているのか?そのターゲットとコンセプトはマッチしているか?コンセプトの達成度はどうか?コンセプトに再現性はあるか?

さて、本稿第一回目でポートフォリオの話をした。出版社経営とはポートフォリオが全てであると。そしてこの解像度とポートフォリオは相性が良さそうに見える。漫画と書籍の割合はどうだ、全体としてF1層に向けた商品が何本ある、漫画には女性向け作品が何本ある、社会批判的コンセプトの作品が占める割合は何%だ、ダイエット本は何本あって料理本は何本ある……。

相性が、良すぎる。

それはそうだ。「ポートフォリオ」という資本主義度の高い概念を出版業に持ち込んだのだから。しかし本稿はなんだ。そう、「出版社は資本主義に向いてない」だ。忘れてはいけない、出版業を資本主義に落とし込むにおいて便利なツールであるポートフォリオは同時に出版社を蝕む毒でもあるのだ。ではその「毒」は出版社の何を蝕んでいるのか?

「プロダクトの柔軟性」だ。

出版社を蝕む「毒」

ポートフォリオは出版社をうまく説明「しすぎる」。自らのプロダクトの長所をマーケットにアジャストさせたり、流行りのコンテンツをプロダクトすることに注力したり、まだ注目されていないジャンルにトライしたり、我々は常にそうしているし、そうしてきた。
しかしそれらをポートフォリオという言葉で言語化し説明した瞬間、起こるのはプロダクトの硬直化だ。資本主義以前のプロダクトをマーケットにインさせて行ったはずが、資本主義の言葉にまみれたプロダクトはいつしかただのプロダクトアウトなきマーケットインと化していく。

再びポロックに喩えれば、これは筆先が巨大になっていく過程だ。ある限定された円の中に筆先から絵の具をドリップして、その偶然の結果をアートとして提供していたはずが、人気の色を使ったり、なるべく円内の絵の具のつき方を人気の形にコントロールすればもっと売れるのではないか? と考えるも絵の具のつき方をコントロールできる方法は見つからず、たどり着いた果ては巨大な筆先を使って円内を同色で埋めてしまうことだった。
絵の具のつき方に安定感は出た、人気の色だから皆のニーズも満たしている。さあこれからこの作品群をどんどん売って行こう。これはそんな寓話だ。

さて今度は喩えから戻ってこよう。この「寓話的巨大筆先ポロック」が生み出したのは果たして何か? これが現代マーケットイン型コンテンツの正体だ。プロダクトアウトの本質は残っている。流行や人気を踏まえたプロダクトアウトをマーケットインさせるスパイスも効いている。出版やコンテンツを資本主義に美しくアジャストさせた結果、生み出されていくものは「まったく同じ作品」だ。

これはしかし論理的帰結だ。そもそも資本主義、そして現代ビジネスが求めるものは再現性であり非属人化なのだから。

だからまたもうひとつの帰結としてこのアプローチは我々出版業界、またコンテンツ業界全体において旧来のプレイヤーよりも新規参入プレイヤーたちが取った手段となった。

そう。「縦型コミック」だ。

いわゆる縦スクロール型マンガは数年前一斉に参入が起こり、数多の資金調達が起こり、大きな可能性を持つビジネスとしてもてはやされた。では、その期待は思った通りに実を結んだか? いや、皆の、特に投資家の、思うほどにはなっていないだろう。なぜか。

説明しすぎたのだ。ポートフォリオを使い、IR語を使い、ビジネスを、コンテンツを、数多の優秀な人材が説明しきった。それらはすべて、資本主義的に何も間違ってはおらず、むしろひとつの正解であるとさえ言えるだろう。しかしそれゆえに皆、プロダクトに苦戦し、巨大なビジネス的成功を収められていないのは、新規参入組にコンテンツ制作のノウハウが足りなかったことなどが主な理由ではないし、出版社と違うプロダクト志向を持ったからではないし、クリエイターが集まらなかったわけでもない。説明しすぎたのだ。

だから本能的に、出版社が縦型コミックやマーケットイン型のコンテンツに拒否感を示す、その理由も根は同じと言える。

だから言っている。我々、出版社はそしてコンテンツビジネス全体は「資本主義に向いてない」のだ。
資本主義は、株式資本主義は、つまりIRであるし、IRとは説明だ。我々が資本主義の中で生きていくにはIRが、説明が必須である。しかし。その説明は我々を毒する。我々は説明を行うことによって自らを毒していく。

出版社はそうして株式資本主義の中で緩やかに死んでいくのだ。

出版社は死ねない

しかし、だ。
死ぬわけにはいかないのだ。
我々に勝手に死ぬ自由はない。
なぜなら我々は本という文化を、作品という文化を受け取り、次代へ継承していく責務も負っているし、そして何より、今を生きる作家たちを支える存在なのだから。
ではどうすれば?

すべての力を使って説明し、しかし説明しきらないことだ。
その具体的な方法が解像度を下げること。

「あえて解像度を下げたポートフォリオでのIR」

本稿でいうポートフォリオの解像度は上がっているが、それを作り上げるプロセスにおける解像度は意図的に下がる。これが私がそうしてきた「出版社の資本主義への向き合い方」であり「資本主義への抗い方」であり「資本主義の中で生き残る方法」だ。

出版社は資本主義に向いてない。
だからこそIR語で出版社を語ろう。そのツールはポートフォリオだ。
そしてそのポートフォリオを作る上で決して解像度を上げてはならない。

ステップがこの3つに分解されたところで次回となる。
では具体的に、解像度を下げるとは?


「出版社は資本主義に向いてない」(第四回・終)

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