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2040年、出版の未来(第一回) 寄稿・メディアドゥ上級顧問 新名 新

こんにちは。メディカム編集部 経営企画チームです。
メディアドゥは、電子書籍取次事業者として2,200社以上の出版社、150店以上の電子書店の間に立ち、出版業界全体の発展に貢献することを目指してきました。将来にわたって必要とされる企業であり続けるためには、出版業界の成り立ちや特性を深く理解しながら、この先訪れる未来を様々な視点から想像し、出版業界の方々と共に新しい時代をつくるイノベーションを模索していくことが求められます。

そこでメディカムでは、文芸編集者を振り出しに40年以上もの間出版業界で活躍し、メディアドゥ副社長 COOを経て現在は上級顧問を務める新名新氏による連載を開始します。新名氏が見る業界の成り立ちや社会の動向を踏まえた、「出版の未来」を4回に分けて掲載していきます。

メディアドゥ 上級顧問 新名 新(にいな・しん)

1954年生まれ。1980年(株)中央公論社入社。吉行淳之介、司馬遼太郎、筒井康隆、村上春樹、内田康夫などの編集者を担当。1996年(株)角川書店(現・KADOKAWA)入社。2007年同社常務取締役就任。電子を含む出版部門、海外版権部門を統括し、モバイルブック・ジェーピー、リブリカ、ブック・ウォーカーなど電子出版関連企業の社外取締役を務める。2014年(株)出版デジタル機構代表取締役社長就任。2018年(株)メディアドゥホールディングス(現・メディアドゥ)副社長就任。2024年より上級顧問。


はじめに

出版の未来を語るにあたって、日本の出版業の歴史的特色から語り始めようと思う。出版社って何か違うよね、普通の会社と異なるよね、という業界外の方々の違和感が何に起因するのかを、私なりに考えてみたいと思う。
そのうえで、昨今厳しい状況にある日本の出版には、果たしてどのような未来が待ち受けているのか、思い切った予測をしてみよう。

そもそも出版とは

商業的な出版は寛永年間の京都で始まったと言われるが、現代の日本出版産業に近いものの萌芽としては、1780年代あたりに源を求めることが出来よう。2025年大河ドラマの主人公に抜擢された蔦屋重三郎(蔦重)が活躍した江戸天明年間、将軍でいうと家治、家斉の時代、天明の大飢饉、寛政の改革、世界史的に見ればフランス革命が起きた頃のことである。

蔦屋重三郎の出版業は、吉原のガイドブックや浄瑠璃の脚本を出版することから始まった。その後、洒落本※1、黄表紙※2など読み物にも手を広げ、さらには名だたる浮世絵画家の版元※3となることによって、ビジネスを大きく拡げたのである。現代のカルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)が展開するフランチャイズ「蔦屋書店」「TSUTAYA」も、蔦重の屋号と創業者増田宗昭氏の祖父が営んでいた事業の屋号の双方に由来している。


※1 洒落本:遊郭などを舞台として、男女の会話を中心に描く小説の一種
※2 黄表紙:風刺などが交ざった大人向きの絵入り小説の一種。その名の通り黄色い表紙が特徴
※3 版元:印刷物の出版元・発行元

さて、蔦重の事例でも分かるように、広く大衆に人気を博す少々いかがわしい事柄を扱うのが出版業の始まりであった。瓦版などはまさに現代の週刊誌と同じ役割を果たしていた。このように商売を拡大してきた出版であるから、当然、時の権力である「お上」とは相性が悪く、享保7年(1722)には早くも江戸幕府が出版取締令を出している。蔦重も山東京伝の作品を刊行したかどで重過料、そして著者自身も手鎖50日の罰を受けている。これはまさに寛政の改革による風紀取り締まりの一環であった。因みに井上ひさしの直木賞受賞作『手鎖心中』は、この頃を舞台にした傑作である。

一般大衆を相手にした出版は、遊女ガイドや春画などの艶ものだけでなく、体制批判を込めた黄表紙などでもお上の神経を逆なでした。こうした黄表紙の中には、人口100万を誇る大都市江戸(当時のロンドンを凌いで世界一だったとも言われている)で2万部も売れたものがあったそうだ。今なら東京だけで20万部 というなかなかのベストセラーである。かくして近世日本の出版と時の権力の関係は、常に緊張をはらむものとなっていった。

近代日本の出版

明治維新を迎え、海外の出版事情や金属活字の技術などがどっと入って来ると、当時の知識人はこぞって出版による日本の改革や、文化・産業の近代化を推進しようと考える。その結果、雑誌という出版物の創刊が盛んになった。一例として、かつて私が在籍していた版元の看板雑誌「中央公論」の創刊についてご紹介しよう。

「中央公論」は明治20年(1887)に、西本願寺系の学生有志が創刊した「反省会雑誌」に端を発している。何を反省したのか? 何と〈禁酒〉が重要なテーマであった。後に西本願寺の法主となる大谷光瑞も、若き日のロンドン留学時にreviewという出版物に触れ、日本にもこのようなものが必要だと書き送っている。その後、reviewは評論雑誌などと訳されるようになる。

こうして明治初期に登場した雑誌の多くは、何らかの主義主張(文化、社会、科学などジャンルを問わず)を広く一般に広めることが目的で刊行され、そのために江戸期とは異なる近代的な「出版社」が創業された。この傾向は今でも続いており、戦後の昭和になっても出版社は何らかの理念(それが娯楽的なことであっても)のもとに創業されるのが常であった。

ここで特筆すべきは、明治時代の出版の担い手についてである。戊辰戦争後も各地で旧士族の叛乱が続いたが、薩長のしかも下級武士が中心であった明治政府に不満をもつ多くの士族や幕臣は、この新しい出版や新聞の力によって自らの主張を展開しようと考え、刀をペンに持ち替えた。中でも漢籍などの教養において当時の日本を代表する知識人であった江戸の旧幕臣は、いわば都会のインテリ階級という自負を持っていた。その彼らが、新政府を構成する薩長の田舎侍の風下に立たねばならないという不満は大きかったのであろう。かくして旧幕臣や士族が出版する雑誌や新聞では、激しい政府批判が日常茶飯となった。明治になっても出版と政府の関係は、江戸時代とは異なる構図だが、引き続き激しい対立関係にあったのである。

昭和の出版

それがピークに達したのが、大正デモクラシーの後、太平洋戦争に至る戦前昭和の時代である。戦争が激化し昭和13年(1938)に国家総動員法が制定されると、明治からあった新聞紙法、出版法をもとに、新聞や出版には厳しい検閲と激しい弾圧が加えられるようになった。ここではその一例として昭和17年(1942)に起きた「横浜事件」を取りあげてみよう。

総合雑誌「改造」に掲載されたある論文が共産主義宣伝とされ、著者が治安維持法違反容疑で検挙された。ところがまったく別の事件を捜査していた神奈川県の特高警察(反政府活動家を取り締まる専門警察)が、この著者と雑誌「改造」および「中央公論」の編集者が同席する懇親会の写真を発見する。神奈川県警察部はこれを共産党再建準備会だと断定し、ここに参加した人物をはじめ岩波書店、朝日新聞などの関係者60人ほどを次々と逮捕した。その結果、特高警察の拷問により4人が獄中死、1人が保釈直後に死亡という陰惨な結果を招く。当然、雑誌「改造」と「中央公論」も昭和19年(1944)に軍部の圧力によって廃刊に追い込まれた。

この事件は、有罪判決の言い渡しが昭和20年(1945)8月から9月という終戦直後に為されたことによって戦後も尾を引く。昭和22年(1947)、犯罪者となった出版人たちは事件に関与した元特高警察官らを告訴し、さらに事件を特高警察によるでっち上げとして再審請求を3度にわたって行ってきた。再審を勝ち取ったのが平成15年(2003)、本事件が最終的に決着し、事実上の冤罪であることが確定したのは、何と平成22年(2010)という比較的最近の話なのである。

現在、30代半ば以上の出版関係者にとって、権力と出版の緊張関係は決して他人事ではなく、同時代の出来事だということがお分かりだろうか。かくいう私も、中央公論社在籍時代は、先輩社員の冤罪に対する戦いに、労組委員長としてささやかな支援をした経験を持つ。このようにして、出版業界の独特の気質は形作られてきたのだ。

編集権の独立

現代の出版社でも色濃く残るのが、編集権の独立という理念である。雑誌、書籍の編集者は、広告主、芸能プロダクション、暴力団、警察など外部の様々な団体から、時には内部の経営者からの圧力にも曝されるが、これに屈して出版物の内容を曲げてはならないという考え方を持っている。もちろん、いつでもどこでもこの理念が通用するわけではない。いや、これを貫くことは、いつの時代にあってもなかなか困難だろう。

私が角川書店の常務取締役であった頃、社内の映画部門がある大作小説の映画化を発表した。すると、この小説に登場する会社のモデルは自社だと考えた某大企業が激しく反撥し、角川グループの全雑誌に対する広告出稿の停止やタイアップ中止という兵糧攻め、近しい大物政治家を通じた経営陣への圧力などによって、映画化の中止を求めてきた。なりふり構わぬ攻勢に、我々も辟易したものである。しかし、当時の経営トップであった角川歴彦氏は全幹部社員を集め、状況を事細かに説明した上で、「私は映画もジャーナリズムだと考えている」と宣言し、映画制作に向けて全社員の協力を求めた。

私が在籍した中央公論社と角川書店というたった二つの出版社においてさえ、こうした体験には枚挙にいとまがない。文藝春秋しかり、新潮社しかり、大手の講談社、小学館なども、経営陣は編集への介入を自ら戒めるという気風を、今でもしっかりと残している。差別的表現を始めとするポリティカル・コレクトネスへの対応について、表現の自由と社会的公正の狭間で、編集部や経営陣が常に議論を怠らないのもその表れである。

版元、流通の大手を含めて出版業界に上場企業が少ないのも、株主を含めた外の圧力から出版の自由を守るためであると考えられており、同族経営の出版社が多いのも、創業の理念を継続させることが重要だという暗黙の了解があるからである。これも、出版業が理念を社会に流布するための「装置」であるという明治時代からのDNAのなせる業だろう。

サステナビリティと対極にあった出版

逆に言うと、出版社が創業時、または雑誌の創刊時に求めてきた理念を社会が必要としなくなれば、自らその雑誌を廃刊する、極端には出版社を解散することも辞さないという姿勢がある。こうした理念は従業員や取引先の生活より優先されることさえあり、変節してまで雑誌や会社を残すことをあからさまに侮蔑する出版人もいる。

これは出版社を理解する上で非常に重要なファクターである。極端に言えば、出版社にとっては昨今重視されるサステナビリティが最も重要な価値ではないとさえ言えるのである。我々が出版業界の行動原理を不可解と感じる原因の一つがここにある。

私が社長を務めていた出版デジタル機構においても、株主であった政府系金融ファンドの産業革新機構(当時)と大手出版社の関係がうまく行かず、創業から2年半ほど経営が混乱した。今にして思えば、こうした独特の文化が金融関係者の理解を超えていたことが原因の一つであった。しかし、ともすれば唯我独尊的でもあるこうした考え方は、現代経済環境の中で厳しい試練に曝されている。現在の出版界が抱える宿痾は、この硬直的理念への拘泥がその一因であると私は考えている。

そもそも、出版以外の企業も多くは理念をもって創業されており、こうした企業の経営者は、事業の理念とサステナビリティの両立に日々心を砕いている。官公庁や政治の介入を撥ね付けるだけでなく、時には協同して事業を維持・推進することも必要だと理解している。

出版企業の経営者にもこうした柔軟性が必要とされる時代はとっくに来ており、その延長上にデジタル化や資本政策、意識の変革といった出版の未来を築いていく時代がやって来るのである。次回以降は、そうした観点から出版の未来を語りたいと思う。


2040年、出版の未来(第二回)

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